2014年10月20日 星期一

任天堂が死んでも、ゲームにとって良い事など一つもない

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2014-10-19 20:06:13

任天堂が死んでも、ゲームにとって良い事など一つもない

テーマ:ゲーム業界 はてなブックマークに追加 
任天堂。イノベーター。北米のゲーム市場の救世主。全く理解に苦しむ理由から、炎の中に倒れることを非常に多くの人から望まれている会社。何世代ものコンソールを経て、任天堂は最高に尊敬されるゲーミング・カンパニーから、身の毛のよだつような死を迎えるべきだとメディアにこき下ろされる会社に変じてしまった。狂信的なコンソール戦士と任天堂を憎悪する者たちは言う。任天堂はバブルに溺れ、木を見て森を見ることができないのだと。だがどれほど多くの人が任天堂に死を目の当たりしたいと望んだところで、それはゲーム業界にとって何一つ良い影響は与えないだろう。

憎しみをたぎらせたゲーマーが任天堂を悩ませているということは、本当に理解できない。それほどまでの嫌がらせをさせるには、任天堂が一体何をしたというのだろう?クルマにキズでもつけられたのか?冷蔵庫を荒らされたのか?トイレを流さなかったのか?おいおい、不快な驚きを見つけるために座席を持ち上げるのは嫌いだが、だからといって自分はフェンスの支柱のヘッドを呼び出し始めたりはしない。


このゲームを覚えているだろうか?これが北米にゲーム市場が残っている主な理由なのだ。



任天堂への憎しみのパレードがなぜ起こったのか、明白な理由を考えてみよう。もはや16ビットの時代は終わった。ゲームの黄金時代として広く記憶されている時代だ。1990年代の初期から半ばまで、任天堂とセガはメディアがそれまで目にしてきた最強のコンソール戦争の一つを戦っていた。最終的には失敗したが、他のすべての競合他社が夢見たことに、セガは手を掛けるところまでたどり着いた。任天堂をトップの座から引き摺り下ろすという夢だ。ソニックの登場はメガドラを世間に知らしめ、セガを任天堂の入り口のドアにまで届かせた。この戦いの帰趨はゲーマーにとって輝かしいものであった。任天堂とセガは競い合い、多くの人は両社はその頂点を極めたと感じたのだ。だがことわざにもあるように、すべての良きものには最終わりが来る。32ビットのゲーム技術が登場して一般ゲーマーの耳目を奪い、16ビットの時代は思い出となったのだ。

時代は変わった。単純な言いまわしだ。たった二つの言葉でしかない。だが真に驚くべきことは、この二つの言葉がどれほどのことを含んでいるかなのだ。16ビットのコンソール世代からに今日までの間に、任天堂のキャンプでは沢山のものが変わった。変わらなかったことは、任天堂がいまだに驚くべき品質のハードウェアとソフトウェアを提供していることなのだ。大きな違いは、N64の時代以降、3rdパーティの任天堂に対するサポートがいまだに貧弱で、任天堂を侮辱していることなのだ。Wii Uとここのところの任天堂のコンソールに3rdパーティのサポートがあったのは事実だ。だがソニーとMSは享受してきたサポートと同じではない。


楽しい時間を過ごすのが死ぬほどイヤでないなら、このゲームをプレイしない理由などない。



状況は「古き良き時代」と同じではない。任天堂が自らの時代からあまりにも長く生き残ってしまった過去の遺物で、死に掛けている(あるいはもう死んでいる)と無数のゲーマーが信じているからだ。「任天堂は死んだ」という大量の記事がネットに溢れ、任天堂の滅びるのを見たいという任天堂アンチの渇望をひたすらに掻き立てている。だが任天堂への盲目的な憎しみで、次の三つの事実が見えなくなっているのだ。


1)任天堂は、商品を届けるときには本当に良いものを届けている。Super Mario 3D Worldは革命的なゲームではないかもしれないが、私が今までプレイした中で最高のゲームの一つだ。Donkey Kong Country: Tropical Freezeは、イライラするすべての瞬間でさえも、これまでで一番楽しめた2Dジャンプアクションだ。

2)任天堂のハンドヘルド機のビジネスは唯一無二だ。今現在、ゲームに最適なデバイスはPS4ではなく、Xbox Oneでもない。Wii Uでさえない。現世代の3つのホーム・コンソールの一角であり、最高のゲーム・ライブラリを持っていてもだ。そう、ゲームに最適なデバイスは3DSなのだ。パルテナ、真メガテン、ゼルダ、ブレブリやその他数々のタイトルがある。3DSの目くるめくゲームの量は圧倒的だ。それらすべてをプレイしつくすことは困難だろう。

3)任天堂のないゲームなんておそろしくつまらない。実際、あえてズバリといわせてもらうと、最悪だ。任天堂を憎む者たちはそのことを絶対に認めないだろうが、過ちを正さないことはこの世で最もブザマなことだ。


任天堂に死んで欲しいゲーマーの一部は、任天堂に3rdパーティになってほしいと思っている。なぜだ?要はマリオ、ピクミン、それから他の素晴らしいブランドのゲームをプレイするのに、任天堂のコンソールが買いたくないからに決まっている。だが本当のところを言えば、そうしたタイトルは、任天堂謹製のハードでプレイしたときの足元にも及ばないのだ。任天堂は自社のハードのユーザインタフェースを、他の誰よりも熟知している。Super Mario 64がPSで動くと、まさか本気で信じているわけではあるまいね?


「ゲームパッドはクソだ。普通のコントローラと違うから!」と言う連中は、居心地のいい場所から踏み出すことができないだけなのだ。

任天堂は全体で一つのゲーム会社だ。3rdパーティになれば、自前のハードを持つよりも少ないキャッシュしか得ることはできないだろう。Wii Uは捨て去って新しく始めるべきだというナンセンスは、そうまさに、ナンセンスそのものだ。セガは3つのコンソールでプラグを抜き、それで彼らは今日の姿になった。任天堂がWii Uを斬り捨てれば、取り返しの付かない損害を生むし、このハードを買ったユーザにツバを吐きかけることになる。


任天堂が業界に与えてきたものについて振り返ってみよう。

まずコントロールパッドだ。今日のコントローラには全てこれが備わっている。これは我々がゲームをプレイするやり方を大きく変えたものだ。この発明は任天堂が起源なのだ。ウェイブ・バードコントローラはGCのものだ。ワイヤレスのコントローラはもともとあったが、クソみたいなものだった。今日では、ワイヤレスのコントローラはあたりまえのものになっている。Wii Uのゲームパッドがあれば、自分はHDのゲームをコントローラでプレイし、他の人はTVを見ることができる。その上、コンソールからかなり離れたところに行ってプレイすることもできる。たしかに、ゲームパッドは他のどんなコントローラよりも大きいが、ソニーとMSが提供してきたものとは非常に違ったものだ。

何が言いたいかって?任天堂は依然としてイノベーティブな会社だということだ。ゲーマーはソニーとMSのやっていることをしないといって任天堂を嘆くのがお好きだが、3つのコンソールが極めて似通っていて何が良いというのか?PS3と360はとても似通っていて、どちらにおいても独占作品は少ない。

Wiiは技術的な点では劣っていたかもしれないが、三つのコンソールで最高の独占作品をやすやすと備えていた。任天堂は、おそらく他のどの会社よりも、ゲームについて多くのことをしてきたのだ。任天堂が死んだら、すごいハンドヘルドや革新的な製品がもはや登場しないことになる。マリオやゼルダの新作について、任天堂はしばしば焼き直しを嘲笑されているが、新しい何かをするならば、彼らはいまだに熱い存在なのだ。

任天堂は完璧かって?長期的には違う。任天堂のオンライン戦略のためには、多くの作業と多くの方法が必要になるかもしれない。その点で任天堂は時代遅れだ。任天堂は恐竜みたいなもので、多くの良いことをゲームの世界にもたらしてきたとはいえ、私は固く信じているのだ。任天堂は存在する限り革新的な力であり続けるだろうと。任天堂が死ねば業界は良くなるだろうと信じているような人はだれであれ、バカの天国の住人なのだ。


NS: theouterhaven  Why the Death of Nintendo Would Do Gaming Zero Favors


みらい的コメント:


思いのたけが熱く溢れている文章は嫌いじゃない。

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